ブラタモリを観よう

 約二年ぶりの投稿になってしまった.二年前の文章を消していないのは偉いと思う.

 ちょうどSwitchを買ったタイミングでの投稿で,前回の続きかのように思われるかもしれないが内容は全く関係がない.

 

 世の中は案外複雑で面白いと思うのはとても心地よいものだと思う.

 反対に耳障りの悪い言葉といえば「もらい泣き」だ.この言葉を額面通り受け取ると,相手の涙につられて泣いたという意味になる.あくびのようなものだ.当然,もらい泣きはそのように単純なものでなく,泣いた当人の境遇を想い泣くのである.むしろ相手が泣いているかどうかなど関係ないのであろう.相手が泣いていようが泣いてなかろうがその「もらい泣き」には本質的な違いはない.重要なのは対象のバックグラウンドである.

 

 冒頭で触れた通り二年間の空白があった.正直前半の一年のことなどあまり覚えていないが,スポーツをしたり自動車教習所に通い始めたりとなかなか忙しい生活をしていたようである.片や直近の一年の方はというと,現在進行形でコロナ禍真っ盛りだ.中でも四月から六月にかけてはろくにやることもなく,奏でる生活リズムは木魚と相違なかった.昨今では暇にさえ多様性が求められるのだ.そんな灰色の日々に楽しみを見出してくれたのは同じく灰色の道である.埼玉が誇る見沼代用水はこの住宅密集地帯に面白い痕跡を残してくれた.この話については割愛.

 そもそもなぜ道に興味を持ったかといえば,ブラタモリがきっかけである.ブラタモリで取り上げられるものは,江戸時代から残る痕跡や地殻変動によるものなどそう身近に見つからないものが多い.しかし,河川を埋め立てた跡や暗渠は家の近くにある.当時無性にブラタモリごっこをしたかった僕は街を駆け,いくつかのそれらしきものを見つけては感動していた.

 時間軸を現在に戻そう.今考えるべきはなぜ暗渠なぞに心を奪われていたのかである.今この瞬間にそれをはっきりさせておかなければならない.そのくらいの心意気がないと書き続けられない.

 なぜ道の見た目や形ではないのか.それぞれの道の現在の姿がどうであるかよりも,その姿をとるに至った理由が重要であるからである.見栄えのいいガラス張りの建物よりも,その土地の取れやすい材料や運搬の制約から生まれた独特な建物.武家町や工場跡につくられた市街地.今や何の変哲もない景観にもさまざまな歴史があることに魅力を感じるのだ.

 アニメや小説でも,行きつく結末が似たり寄ったりのものはたくさんあると思う.それらの作品を受けて抱く感情も,分類してみるとそれほど多く分けることはできないだろう.しかしそこに至るまでの過程は千差万別でだからこそ多くの作品が共存できる.そういうことだ.

 

 次回のブラタモリの放送はいつになるのだろうか……