日記です(2021.2.22)

 この頃あてもなく散歩をする日々が続いていましたが,そろそろ目的地が必要だろうと思い,徒歩一時間ほどのところにある城跡へ向かうことにしました.

 道中は三相2回線(往復合わせると4回線)の送電線がありましたが目新しいものはありませんでした.ちなみに普通の送電線ですが鉄塔との絶縁のための碍子が二本並列になっているものもありましたがあれは何の意味があるんでしょうか.気になります.

 本題の城跡ですが,当然堀と盛り土のようなものしか残っておらず,正直よくわからなかったです.この城の特徴としては,自然低地と湿地を利用した堀が挙げられそうです.よくわかりません.

 一通り歩き回ってから帰路につくと面白いものを見つけました.これです.

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 後退用地に「後退用地」と刻まれているのは珍しいと思いました.知らんけど.また,この土地を提供した家の前だけ道が20cmほど(この石の縦幅だけ)広かったです.

 

 以上です.

ブラタモリを観よう

 約二年ぶりの投稿になってしまった.二年前の文章を消していないのは偉いと思う.

 ちょうどSwitchを買ったタイミングでの投稿で,前回の続きかのように思われるかもしれないが内容は全く関係がない.

 

 世の中は案外複雑で面白いと思うのはとても心地よいものだと思う.

 反対に耳障りの悪い言葉といえば「もらい泣き」だ.この言葉を額面通り受け取ると,相手の涙につられて泣いたという意味になる.あくびのようなものだ.当然,もらい泣きはそのように単純なものでなく,泣いた当人の境遇を想い泣くのである.むしろ相手が泣いているかどうかなど関係ないのであろう.相手が泣いていようが泣いてなかろうがその「もらい泣き」には本質的な違いはない.重要なのは対象のバックグラウンドである.

 

 冒頭で触れた通り二年間の空白があった.正直前半の一年のことなどあまり覚えていないが,スポーツをしたり自動車教習所に通い始めたりとなかなか忙しい生活をしていたようである.片や直近の一年の方はというと,現在進行形でコロナ禍真っ盛りだ.中でも四月から六月にかけてはろくにやることもなく,奏でる生活リズムは木魚と相違なかった.昨今では暇にさえ多様性が求められるのだ.そんな灰色の日々に楽しみを見出してくれたのは同じく灰色の道である.埼玉が誇る見沼代用水はこの住宅密集地帯に面白い痕跡を残してくれた.この話については割愛.

 そもそもなぜ道に興味を持ったかといえば,ブラタモリがきっかけである.ブラタモリで取り上げられるものは,江戸時代から残る痕跡や地殻変動によるものなどそう身近に見つからないものが多い.しかし,河川を埋め立てた跡や暗渠は家の近くにある.当時無性にブラタモリごっこをしたかった僕は街を駆け,いくつかのそれらしきものを見つけては感動していた.

 時間軸を現在に戻そう.今考えるべきはなぜ暗渠なぞに心を奪われていたのかである.今この瞬間にそれをはっきりさせておかなければならない.そのくらいの心意気がないと書き続けられない.

 なぜ道の見た目や形ではないのか.それぞれの道の現在の姿がどうであるかよりも,その姿をとるに至った理由が重要であるからである.見栄えのいいガラス張りの建物よりも,その土地の取れやすい材料や運搬の制約から生まれた独特な建物.武家町や工場跡につくられた市街地.今や何の変哲もない景観にもさまざまな歴史があることに魅力を感じるのだ.

 アニメや小説でも,行きつく結末が似たり寄ったりのものはたくさんあると思う.それらの作品を受けて抱く感情も,分類してみるとそれほど多く分けることはできないだろう.しかしそこに至るまでの過程は千差万別でだからこそ多くの作品が共存できる.そういうことだ.

 

 次回のブラタモリの放送はいつになるのだろうか……

DSがなかっただけなのに。

たびたび口にしていたDSの話をしようと思う。小学一年生のころから遡るので誇張や故意の補間があると思うので全部作り話だと思って読んでもらってもいい。

いつからかはわからないけど、DSが流行っていた。特に男子は幼稚園のころからポケモンの話で盛り上がっていた気がする。僕はその輪に入ったことがないからわからない。DSを持っていなかったから。持っていない理由は簡単で、親がかたくなに購入を拒んでいたからである。なんでそこまで買ってくれなかったのかはわからない。あまりにもかたくなだったので、小三のころにはDSを諦めていた。幼稚園生のころは紙の工作が好きだったので、一人で黙々と何やら作って過ごしていた。クラスに誰がいたかよく覚えていないし、本当に誰とも遊んでいないかもしれない。先生と外で遊んだ記憶は少しある。外の遊具は卒業してからも見ていたので、そのせいかもしれない。友達と遊んでいた気はしない。その頃は引っ込み思案でもあり、出席を取るときの「はい」という返事でさえも緊張してできなかったくらいなので、友達がいないのは当然な気はするが覚えてるはずもない。とにかく割と友達少なめな幼稚園生活だった。

小学校に上がった。小学一年生のころは、幼稚園時代に反して友達が多かった。長い休み時間には、クラスメイト8人ほどと校庭で鬼ごっこをしたり、サッカーをしたりしていた。小学校低学年くらいまではみんな元気だった。放課後は何してたか覚えてないけど。多分その中の一人の友人と公園でサッカーしてたはず。その友人はあとで登場するのでA君としておこう。

小学校三年生くらいからである。ついにイナズマイレブンが発売された。ご存知超次元サッカーのゲームである。僕は知らんけど。思い返せばWiiが発売されたのも小学生のころだった気がする。とにかくゲームが流行っていた。休み時間はその話で持ちきりだったのだろう。そもそもゲームを買ってもらえない僕は休み時間大多数の男子の輪に入れないだけでなく、放課後は○○の家でゲームやろうぜ!!みたいな流れに参加できなかった。次第に会話する人も減っていった。友人と言えばA君だけである。A君はどこかのサッカークラブに入っているサッカー好きで成り行きは全く覚えてないが放課後によく遊んでいた。多分帰る方向が同じだったからだと思う。彼の話と言えば、僕がTCGと読書にはまった理由がある。A君の家で遊んでいたとき、彼がTCGを持ってきた。それがあのバトルスピリッツだった。TCG遊戯王とデュエマしか知らなかったが、ルールが面白そうだったので始めてみた。それ以降は毎日サッカーしたりTCGをやったりしていた。これは小六まで続いた。読書に関しては教室の隣に小さい図書室みたいなのがあったので暇なときに読んでたらはまっていた。小五、六に関してはそれどころではないので特に書かない。

なぜDSを買ってくれなかったのかは本当にわからない。兄弟が合計三人なので買うと結構な金額になりそうではあるし、単にゲームにいいイメージがないだけなのかもしれない。別に恨みとかはないしもはやどうでもいいことだけど、男子何人かで楽しく遊ぶという経験がないせいか、今現在そういうノリがとても苦手である。一緒に遊んでいたA君はとても無口で、学校内で話しかけてもかたくなに口を開かず、学校を出た瞬間話始めるという不思議な律儀さを持ち合わせた人だった。そのため結構無言で遊ぶことが多く、特にサッカーはお互い真剣にやるせいか、一番盛り上がらなかった。小五、六のときにはほかにも友人がいたがこれは別の機会にするつもりである。

小学生のときの僕は、自分で言うのはあれだが、無口で運動が苦手でゲームを持たず塾に行ってないが勉強ができ教室では大抵読書をしている変な奴だった。これが変わるのは多分中二のころだった気がする。

センター受験記~明かされる真実~

 絶対にイキリ記事になってしまう。そんな気がする。しかしこんなネタを捨てるわけにはいかないのである。

 センター試験前最後の月曜日、私はインフルエンザに罹った。理由は三日前の金曜日に新木場までライヴを見に行ったことではない。その翌日ファンヒーターの目の前で勉強をし喉を傷め、そのまた翌日に映画を見に行ったからである。センター試験の結果が二次試験に影響しないとはいえ、毎日センターを解く生活は苦しかった。そんな中で与えられた休息を前に喉をいたわる余裕などあるはずもない。私は映画館に行くために自転車に乗り、思い浮かんだ歌を口ずさみながらいつもの道を駆け抜けた…。そして当然インフルエンザに感染したのである。

 初めのころは楽観視していた。インフルエンザ発症後の謹慎は五日間であり、医者も日程的には大丈夫だと言ってくれた。さすがに土曜日まで症状が残っているはずもない。月曜日火曜日と全身全霊で寝た。センターの教材どころかTwitterも開かなかった。そして水曜日、体調が戻った。しかし賢い僕はここで油断するとまたぶり返すことを知っていたため、そのまま寝続けた。そして熱は上がった。なぜなのか、なにか悪い行いでもしたのか。平日結構頑張ってたのだからあれくらいよくないか?仕方なく木曜日も寝た。金曜日のことはよく覚えていないが、さすがに焦り始めたのか数学を解いた記憶がある。体調はかなり戻っていたのだろう。そして運命の土曜日、見事なまでの病み上がりである。余裕で間に合う時間に起きたものの、二日間持つ体調ではない気がした。というのも、一日目を受けてしまうと二日目に体調が悪くても追試験を受けられないのである。さすがに困った。これを確実に避けようとすると追試験に回るしかないのだが、追試験の理系は難易度が高く高得点を取るのが難しい。後期の合格を確実にし、前期を万全の状態で迎えるためにもこれは避けたい。そこで名案が浮かんだ。一日目を追試に回し、二日目だけ本試で受ければいいのである。すぐさま要項を確認し、可能であることを確信し、手続きを進めた。5000円ほどかかる診断書を用意し(母親が)、追試許可証と受験票をもらうために埼玉大学へ向かった(母親が)。申し訳なさ過ぎて何回か謝った。そうして無事センターを乗り越えることができた。

 結果は得点率89%と大健闘した。すごい。東大志望に勝つことを目標に頑張っていたため、同じクラスの東大志望に負けてしまったのがすごく残念だったが、そんな彼は一浪で無事東大に合格した。おめでとう、僕はうれしい。そして反省している。喉のケアは大切に。